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Book Reviews

2018年から読んだ本と

ブッククラブで出た感想をまとめた

書評を掲載しています

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「時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。」ショーペンハウアー『読書について』

山本昌仁 近江商人の哲学 「たねや」に学ぶ商いの基本.jpg

山本昌仁『近江商人の哲学』

2019/7/10

 本書はバームクーヘン製造で全国的に名を馳せた「クラブハリエ」と祖業である和菓子「たねや」の四代目が著書である。ご本人は経営ではなくデザインを学んでから、菓子職人の修業を積み、家業を41歳で継承された。  基幹店である「ラ コリーナ近江八幡」は年間275万人の来客があり、滋賀県一の観光スポットとなり、地域経済を活性化させている。近江商人であることを特段意識した経営はされていないそうだが、社訓である「末廣正統苑」には行動指針がまとめられており、売り手の一人称でありながら、先義後利が徹底されていることが分かる。

 事業拡大の局面では、地元以外の出店先を百貨店に絞り、商品以外のリスク管理を外部に任せつつも、製造は常に地元に置き続けた。創業以来の味を手作りで守るという一般的なイメージを裏切り、常に味を進化させ、機械製造でしか到達しえない美味しさを提供しているあたりに、類の無いバランス感覚を持つ経営を見ることができる。

 一大消費地としての東京、洗練された雅さを持つ京都。いずれとも同じ土俵では戦わず、「ここにしかない」を追求し続けることで、唯一無二の存在となっている。

「味は主人のみが決める」という世襲型の事業承継だが、交代したら最後、先代は一切口を挟まないことを徹底しているのは、変化を必然とするしなやかさを体現している。蟻が持つ「群知能」という、個々が考えて動く組織を理想として、シンボルマークにもしていることからも、人材育成と成長機会の提供と環境整備には余念がない。

 地方には家内工業的な企業が多い中、たねや流の働き方改革を学ぶことで、優秀な人財を確保し、人も会社も地域も成長することができるのはないだろうか。

明智カイト 誰でもできるロビイング入門 社会を変える技術.jpg

明智カイト『誰でもできるロビイング入門』

2019/5/9

 本書は、弱者やマイノリティのために、政治に直接働きかける技術を解説しています。
従来からのロビイングのイメージが、業界団体などの利益共同体が政治的な圧力をかけ、「我田引水」することに対し、著者は社会の諸課題を解決するための圧力を「草の根ロビイング」と称し、区別している。

 本書には「自殺」「病児保育・待機児童」「いじめ」「児童扶養手当」「性的マイノリティ」と言った、近年耳にすることの多い課題の解決のために動いた5名のロビイスト達のケースが具体的に語られている。

 その中から若干強引だが、方程式を作るとすれば、①社会課題について調査をし数値化する②それを署名やメディアに乗せて世論形成する③各政党・省庁のポジショニングに合わせ、強調ポイントを変えて折衝する④法案が通ったとしても、それは大枠であり、施策として落とし込めるまでは専門家委員会にもつながりを持つこと。と理解できた。

 著者は、政策の実現には、支持母体に配慮が必要な政治家ではなく、ロビイストが最適だとする視点が新しい。本書は、民主党から自民党への政権交代を挟んだ期間の、国(会)へのロビー活動が主となっているが、巻末の実務的なノウハウは地方政治・議会にも通用するものが多いだろう。

山浦晴男 地域再生入門:寄りあいワークショップの力.jpg

​山浦晴男『地域再生入門』

2019/3/16

 本書は、地域再生するために、住民自らが目標を立て、内発的に立ち上がるためのワークショップの手法について、事例を交えながら書かれた本でした。その中でも、住民がどうやって地域資源に気づき、どのようにして積極的に関わり、最終的な将来のビジョンを描くことができるかについて入門的に書かれていました。
 しかし、そもそも住民に地元を良くする気があるのかどうか、というところからはじめなければならないでしょう。本書で書かれていることは、確かに著者が行政などに依頼されワークショップを行っていますが、実際に、地域に関わる以前に、そうした地域を良くするためのコミュニティ創出の段階については本書では触れられていませんでした。また、地元のことを悲観しがちな若い世代にどうすれば地域の良いところを知ってもらえるかという取り組みも重要な課題であると感じました。
 しかし、この「寄り合いワークショップ」自体は決して悪いものではありません。例えば、地域の人が話しやすいように「写真」を使い地域資源を発掘し、継続した話し合いを重ねることで徐々に地域の人が巻き込まれていくやり方は学ぶべきものがあります。実際に、著者が入っている那智勝浦町のある地域では、4割の人がIターン者であるなど、移住による地域活性もやはり諦めてはいけないのではないかと考えられます。
 ただ、完全に同じモデルを宮津に輸入するだけではいけないかもしれません。「写真」の工夫はあるものの、何が良いあるいは悪い、という意見を直接集会で述べるのは難しいものです。本書が書かれた2015年には確かにワークショプのブームがありましたが、それから比べると現在はやや下火かもしれません。本書で書かれた内容だけでなく、話し合い仕組みの作り方については、地域ごとの特色を踏まえアレンジする必要があるかもしれません。
 また、単に、公共工事のように、橋がかかったとか、高速道路ができた、という物理的な「物」が出来た段階で満足しがちな姿勢については反省する必要があります。地域の中でも、まちづくりのプランやビジョンが紙ベースで出来ても、実際に動く人や仲間がおらず進まないということは往々にしてあります。本書では、まちづくりのことや、その手法、政府の視点などは盛りだくさんでした。一方で、それをリードする人や外部へうまく見せるためのセンスには欠けていたようにも思います。話し合いの手法を学びながらもあらたな取り組みを打ち出す上で、住民外の視点をどう取り入れるかは重要な課題と言えるでしょう。

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​伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

2019/2/16

 本書はタイトルから想像されるものとは異なり、「福祉的問題」をあつかう本ではありません。しかし、目の見えない人の「身体論」という仕方で、「意味」ベースの支援のあり方を提示しようとする試みでもあります。
 著者は、まず「情報」と「意味」を区別しています。「情報」とは、「時計の時間」のように、客観的でニュートラルなものです。これに対して、「意味」は「個々の生物の時間感覚」のように、具体的な状況や文脈におかれたときに生まれるものです。たとえば、「明日の午後の降水確率は60パーセント」という「情報」は、農家の人、小学生、旅行前日の家族など、受け手にとってさまざまな「意味」をもつものです。
 著者は「福祉的な関係」には「止まれ」を知らせる点字ブロックなど情報ベースの支援が多いと述べます。しかし「情報」優位の福祉的な関係は、しばしば、一方的に見える人が見えない人へ必要な情報を与え、サポートする関係になりがちです。そのような関係では、一方的なある種の偏見や親切心のすれ違いも生まれてしまうものです。そのようなすれ違いを捉えなおすために、本書で、著者は見えない人が見えない人が壷の装飾をなぜ内側にするのか、富士山をどのようにみるのかなどの印象的な事例を通じて、見えない人の「意味」を考察しています。空間をあつかった章では、見える人の経験が不可避的に視野の制限を持つのに対して、一挙に空間を俯瞰的に把握する視覚障害者の経験を、本当の意味での空間の把握なのではないかとさえ述べています。また、本書は「ユーモア」の重要性を主張していますが、不自由な環境に直面した際、それらを直接物理的に変えるのではなく、その「意味」を変えること(中身のわからないパスタソースの偶然性を楽しむ)で生活を楽しむ障害者の術に、かっこつきの親切とは異なるコミュニケーションのあり方を探そうとしています。
 見えない人の経験は、視覚的情報に溢れた晴眼者こそ「みえる」ということに振り回されているのではないかと問い直します。普段の経験や色々な前提がぐらぐらと崩されていくような気分になったという感想もありました。完全にお互いを分かりあうことは難しいことです。むしろ、わたしたちが互いに世界のなかで関わりあう「触媒」として、「障害」を捉えようと著者は主張しています。現代において、障害を個人モデル(足が不自由)ではなく、社会モデル(足が不自由なために職が得られず経済的に不自由な状況)で捉え、状況を変えていくには重要なものでしょう。著者は美学者であることもあり、美術館での共同絵画鑑賞を事例に出していますが、例えば違った地域で違った人たちとおこなうときには何が必要でしょうか。耳で見て、絵で聞く、頭で食べる。自身の経験が溶け出すようなめまぐるしい驚きに触れることは難しいことです。しかし、その度ごとに、さまざまに生きる人々と、いろいろな活動を地域やコミュニティで発明していくことで、新たなユーモアに満ちた社会を目指すことができるのではないでしょうか。みえないものをまだ知りたい、もっと知りたいという好奇を掻き立てる本書から新たな実践の可能性を考えていきたいと思います。

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片野歩『日本の漁業が崩壊する本当の理由』

2019/1/23

 本書は、日本における漁業の問題点の中でも、特に資源管理の重要性について論じようとした著書でした。漁業における資源管理といえば、特に、韓国や中国といった隣国が「悪い」といった悪いイメージをしている人は多いように思います。しかし、本書の問題提起は、水産資源の管理が、そうした国際関係の問題にすり替えられてしまってはならないということにありました。
 日本に住む人は、確かに、日本の漁業が最先端だとおもっていることが多いものの、実は資源管理については、日本はそこまでできていないという現状は大変ショックなものでした。確かに、気候変動などの環境のことはあるものの、やはり乱獲による水産資源の枯渇は避けられないものです。そして、日本の行政の決まりにおいても、管理される魚種の少なさや管理する水準の恣意性など、地域や事業主によって大きなばらつきもあるのが事実です。
 こうした資源管理の問題について、先進的な事例も海外では多く見られます。例えば、ベーリング海のタラを禁漁にしたことや、近年では日本のクロマグロの漁獲規制でしょうか。しかし、前者のタラの禁漁においては、カナダで4万人もの失業者がでるなど、思い切ったアクションが必要とはいえ、実際に政策を実現するには大きなハードルがあるのも事実です。こうした政治の問題については、国際的に漁業以外にも、例えば、エネルギー問題でも同様な課題があります。MSCやエコラベルなど市場から変えていこうという動きもあるものの、現実的には国際水準で使えないものがほとんどになっています。
 もちろん、政治的な変革も必要ですが、漁業者がいかに水産資源を守るかという意識改革も必要かもしれません。しかし、問わなければいかねいのは、なぜそれができないのか、ということでもあります。眼の前に、100万円はするであろうクロマグロが上がったとき、それを海に果たして生産者として戻せるのでしょうか。実際に、東日本大震災後の福島沿岸部ではヒラメの漁獲量は数年で伸びたと言えます。しかし、そうした生産者の目線を抜きにしては、実質的な政策はできないのではないでしょうか。
 ある意味で「取り放題」な日本の漁業に対して、例えば、京都北部の宮津地域のことをどのように考えられるのでしょうか。底引き網が11あり、実際に禁漁区も設けています。ですが、消費者として、日本の漁業についてよく知った人も少ないように思われます。それは、確かにメディアがきちんとした情報を伝えていないのかもしれませんし、日本国民の意識が低いのかもしれませんし、教科書の情報が古すぎるのかもしれません。しかし、それ以上に、まず身近な漁業や魚のことについて考えてみることが大切なのかもしれません。

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満薗勇『商店街はいま必要なのか』

2019/1/5

 本書は、商店街を取り巻く日本の流通について歴史的に振り返りながら、現代における意味を考えようとする書でした。確かに、まちづくりにおいて衰退しているとばかり議論商店街について、いつごろに生まれ、いつごろ盛えたのか歴史的に考えて見る機会は少ないように思います。ここでは詳細に紹介することはできないので、大きく2つの論点から紹介したいと思います。それは、第一に商店街が誕生するまでの小売業について、第二に商人が「まち」を意識し、大切にしてきた歴史についてです。
 第一に、商店街が誕生する前に大きな影響を与えたものには、「百貨店」と「行商」があるということでした。まず、明治初頭には、例えば、着物を購入したければ、欲しい色や値段を店の人に伝え、そして店の人がそれをもってくるという仕組みでした。この仕組みを、現代では当たり前の、商品を陳列して、店舗の中で自由に見て回る仕組みに変えたのが「百貨店」でした。そして、その一方で、その次代生鮮食品などは、店舗形態ではなく、歩いて売り歩く行商が一般的であったといいます。こうしたあり方が、変化したのが1920年代であり、百貨店に対抗する「愛郷」運動と行商から店舗形態への転換から、1930年代に一気に商店街が生まれるようになったといいます。
 第二に、商人が「まち」を意識するようになった歴史についてです。すでに述べたように、それには行商から店舗形態への移行が、もっとも大きな影響をもったということは言うまでもありません。しかし、戦後の高度経済成長期に生まれた「商店主婦」が担った役割が、別の形で「まち」と繋がった点は興味深いものがあります。つまり、すでに商店街は様々な街に広がっていましたが、何が必要とされているのかその地域の生きた情報を仕入れる役割を担ったのが、家族経営を中心としてなされた商店の主婦であり、それが地域との商売だけでない接点をもったということです。
 こうした背景の中で、1980年以後には、家族経営の焦点を母体としたコンビニの登場や、共同配送センターを設けることで流通に革命をもたらしたダイエーのようなスーパーの形態が地域に入り込んで来るようになってきたということです。ここでは、確かに必要かどうかの結論を出すことはできません。しかし、商店街がもつ「まち」の側面がどのようにして作られてきたのかを理解することは、便利だからという消費の側面やお金が必要だという労働の側面だけでない新たな視点を提供してくれるものと思われます。

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田村八洲夫『シェアリングエコノミー』

2018/12/12

 本書は、近年勃興しつつある新たな経済様式『シェアリングエコノミー』について、エネルギーや環境問題といった視点から論じようとした本でした。本のタイトルから、近年話題になっている民泊やカーシェアリングサービスなどについて掘り下げられるのかと想像しましたが、本書はエネルギーや資本主義経済の批判などより壮大な背景について論じようとしていました。シェアリングエコノミーの中の各論に入り込まない分、具体的な問題について議論されることは少なかったですが、一方で全体の構造を捉えようとする意味で意欲的な書で会ったと言えます。
 その中でも著者の田村さんが特に論じようとしているのは、石油を中心としたエネルギーについてでした。現代社会の特徴である共有をベースとするシステムは新しいものを生み出すために投資を必要としないのに対し(例えば、車をシェアしたり、家をシェアしたり)、シェールガスのようなエネルギーは近年すでに採掘のためにかかる費用が大きく、矛盾を抱えているのではないか、といった点です。こうした石油依存をどのように脱却するかが、これからの日本において重要な課題であるということでした。
 しかし、本書の議論には、いくつか問題があると言わざるを得ません。その大きな問題は、資本主義社会が終わりに向かい共有主義経済(シェアリングエコノミー)が自然現象のように生まれる、という書きぶりです。AIにおいてのカーツワイルのシンギュラリティの議論や、半導体においてのムーアの法則を著者が肯定的に論じるように、社会もそうした決定的なものへ向かっていくような論じ方になっている点は注意深くなる必要があるように思われます。例えば、3Dプリンターや自動運転の技術が質的・具体的に経済・社会をどう変えるのか、そうした点を深めてもらいたかったように感じました。
 もちろん、それに対して著者は無関心なわけではありません。シェアリングに対して、私有ではなく、共有の可能性を認めていることです。このことは、著者が、共産主義亡き後に、資本主義を批判し、共有主義に可能性を感じているからと推測できます。確かに、著者も言うように、おそらく「3丁目の夕日」の時代は戻ってこないでしょうし、東日本大震災後に生まれた新たな考え方が日本社会に影響を与えたことは間違いないでしょう。ですが、一つ一つの技術がどのように社会を変えていくのか、そうした各論の積み重ねをしていくことが、まちづくりにおいても重要であるように思われます。

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三口聡之介『民泊ビジネスのリアル』

2018/11/15

 本書は、近年話題になっている「民泊」についてわかりやすくまとめられた本でした。特にその中でも、Airbnbのような誰でも気軽に始められる民泊についての、安全面や衛生面といった危険な側面と、大きなイベント時の受け入れや地域を知る入り口になる可能性の側面の両方が書かれていました。本書は、2018年現在のいわゆる「民泊新法」の適用前にあたる2016年に書かれたものであるため、若干のズレはあるものの大きな論点は現在とそれほど変わっていないように思われます。

 まず、誰でも民泊ができることの危険な側面には、旅館業法で定められているような衛生管理の体制の難しさが挙げられます。いわゆる一般の方が始める民泊には、布団を殺菌したり、叩いたりするといった衛生管理の面を直接管理することが非常に難しいと言えます。また、匿名性が高いことから、犯罪の温床になる可能性や地域住民にとっても見知らぬ人が多く出入りすることへの抵抗があるように思われます。著者は、この点は、しっかりと仲介業者(例えばAirbnb)が入り、指導することが必要であるとしています。

 こうした管理の難しさはあるものの、著者は民泊自体に可能性を見出しています。例えば、東京オリンピックのようなイベントがある際の受け皿となる可能性、地域の外部の方を受け入れることでホテルや旅館よりも地域に近い宿泊体験ができることなどです。例えば、宮津のような丹後圏であれば、京都市内以外の宿泊場所として民泊活用の可能性や、民泊を通じたまちづくりなどが考えられます。

 しかし、日本の実情を見てみると、宿泊施設全体に対する民泊の割合は1%以下であるということがわかっています。このことは、地域の方からの反発だけでなく、空き家問題にも通ずるものがあると言えます。家が空いていてもなかなか活用できない現状に対して、単に、「受け皿になるから」という提案をしても、誰も振り向いてくれはしないように思われます。そこには、「なぜ民泊が良いのか」に対する答えに、単にまちづくりによいとか、受け皿になるからという使う側の目線で両手を当て賛成するのではなく、家を持つ人にとって響くような答えを紡ぎ出していくことが大事ではないでしょうか。

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玉村豊男『村の酒屋を復活させる』

2018/10/17

 本書は、長野県東御市にある田沢集落を中心とした、酒屋復活プロジェクトについて書かれた本でした。しかし、著者の玉村さんは、田沢村全体をワインの村として構想する中で、地域の一つの集まる場所として、酒屋を再興することを考えておられました。
 著者自らが、数十年前に移り住んだ経験を振り返ることから始まるわけですが、それはワインを作るという取り組みがいかに時間的に大変であるか感じるものでもあります。しかし、一方でその長さは、「君が20歳になったら一緒に飲もうね」という著者が子どもに語りかけた言葉にあるように、遠い未来について考えることのできるものでもあるという良さも感じるものでもあります。
 とはいえ、著者の問題意識にあるように、地域にある空き家をどうやって片付けるのか、空き家バンクでは見えない多くの家が残されていること、これは宮津でも共通することのように思います。また、家の側面だけでなく、地域の寄り合いを取ってみても、地域外の人にとってはそれがどのような意味を持つのか、にわかに理解できない部分も多くあります。こうしたものを、新たに移り住むとともに変わっていくことも重要であるように思います。
 一方で、収益という現実的な側面からは、初期投資に必要な資金をクラウドファンディングで集めるというやり方も参考になるものでした。ここでは、実際に関わってくれる人を増やすことが大切だということが書かれていましたが、700万円以上の資金を集めた玉村さんらが、最終的にどのようにしてこの額を集めるに至ったのかの細かな理由は書かれていませんでした。
 また、本書ではワインの話しかなされませんでしたが、例えば、宮津ではオリーブの取り組みにもあるように、ブドウだけでなくその他の品種についても目を向けることができるのではないかと感じる部分もありました。本書では酒屋を復活させるプロジェクトが中心でしたが、すでに多くの日本酒蔵がある丹後地域ではそうしたものに着目するのも一つの方策かもしれません。

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飯田泰之他『地域再生の失敗学』

2018/09/29

 本書は、経済学者である飯田氏を中心としながら、地域再生に関する多様な人びと(学者、実践者、政治家、など)が寄稿と対談からなる、経済を一つの地域再生のポイントとした著書でした。
 その中でも、行政がどのような立場で地域経済に関わっていくのかという点は、批判的に述べられていました。それは規制を緩和することを中心として制度を改革していくべきであり、単にハードを作るという点にとどまるだけでは、結局補助金頼みの地域政策にしかならならず、持続したものにならないということです。
 また、こうした制度面だけでなく、外部の人を柔軟に受け入れる土壌がある地域ほど地域再生が活発であるという点も指摘されていました。そこでは、地域の中に外部者受け入れる文化をどのようにして根付かせるのかという点も、フォーマルな制度に加えて、インフォーマルな文化的側面も重要であるように思われます。
 その中で、地域経済の再生の中でも、非公式な場の重要性が述べられていました。シリコンバレーの例では、ベンチャー企業の社長たちが困ったとき、「とりあえずスタバへいく」ということが紹介されていました。つまり、そこへ行けば誰か自分の悩みを解決してくれる著名な人が集まっている、ということです。日本のスターバックスは、こうしたサードプレイスの役割を持っているようには思えませんが、田舎のコミュニティの中で実は親和的にこうした非公式な場の創出ができる可能性があるように思われました。
 いずれにしても、どこでも似たようなイベントが生み出される中で、効果測定や結果検証が十分とは言えない中で、コミュニティの活性化だけにとどまるのではなく収益にもこだわるなど、現実的・実利的な側面からも補助金の制度を捉え、活用する必要があるように思われます。

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​山田拓『外国人が熱狂するクールな田舎の作り方』

2018/09/05

 本書は、山田拓さんが10年ほど前に飛騨古川で創業された「美ら地球」の経営秘話となっています。山田さんがいうように、日本人向けのものではなく、「いきなり」外国人へ向けた観光戦略を作ることが重要ということでした。

「美ら地球」では、サイクリングツアーを中心とした事業を行っていますが、そこで観光の中心となるのは、普段の何気ない田園風景や湧き水、産直の販売所の野菜などが日本人にとっては見慣れた当たり前のものが、観光資源となっていました。そこには、外国人(欧米豪が中心)のレンズで見た田舎という、新しい視点の切り替えが大事だということが示唆されていました。例えば、ここ宮津市であれば、天橋立を見るんだという視点を切り替えて、地域のお地蔵さんに目を向けてみたり、都会には無い自然が田舎にあるんだという視点を切り替えて、地平線を見渡せるような小麦畑はないけど稲穂のついた田んぼはある、というような点です。もちろんこうした観光資源をどのように発掘するかについては今後の課題であるようにも思います。

 また、単に山田さんの視点は、地域の観光資源を活用するということだけにとどまってはいませんでした。もちろん英語を活用できるスタッフやHPの作成なども重要ですが、地域資源は地域の人々が守り続けているからこそなりたっている、その点をきちんと理解しながら、田舎の持続可能な観光のあり方が大事であるということでした。それは、理念や思想を含んだ主義(イズム)としての「ツーリズム」であり、単に地域のものを消費して帰っていくという「観光」ではないあり方が大事であるということでした。そこには、大手旅行会社の手配したバスにのっていく観光だけでない、近年話題になっている現地集合・解散型の着地型観光の方向性に向けて、一つのヒントがあるように思われました。

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長坂信人『素人力:エンタメビジネスのトリック⁉』

2019/6/13

「20世紀少年」「ROOKIES」等、多数のヒット作を手掛けた映像制作会社社長が本書の著者です。たいした志もなく成り行きで映像業界に足を突っ込み、素人プロデュ―サーを経て、素人社長となった著者がその仕事人生のなかで見つけた仕事術や先輩・恩師から学んだことをまとめられたものでした。
 自分自身を「素人」と表現しながらも、とてもそう思えない著者の「人間力」や「社会のなかでの重要な力」を感じさせる仕事術が随所に書かれており、著者の人生訓として分かりやすく書かれていました。
 注目した点として、例えば、著者が秋元康さん等、幾多の名プロデュ―サーや監督と出会い、仕事ができたことについて、「運が良かった」と表現しています。自身の運をつかむ資質について「運をつかむには寝て待っていればよいのではなく、運を見逃さないための日々の準備が必要だ」と述べています。またテレビ業界のけっこうなポジションの重鎮は友達の少ない人が多いようで、そんな人たちの話を最後まで聞くことで信用を得ることができたようです。大切なことは言うことをホイホイ聞くということではなく、相手の気持ちを汲んだうえで、話しを聞くことがどんな職場であっても必要だということです。また、重要な視点として、「物事の正解は一つではないということ」です。『もし高校野球のマネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら』で大ヒットした作者の岩崎さんもかつて放送作家のときにはクビ寸前だったそうですが、別の出版社に認められ世に出て評価されています。手元のものさしではなく、別のものさしを当てたらすごかったということがよくあるということです。
 ビジネスという視点での、著者の考え方として述べられていたことは、会社を長らえさせるために必要なことは「井の中の蛙でいいと」という考えでした。激変するメディア業界のなかで、生き残っていくためには無計画で進むのではなく、「念押し」と「確認」を徹底し、新たなチャレンジをしながらも、身の丈に沿った範疇で仕事を遂行していくこと。そして、面白い番組を作り続けるためには、面白いことをストックし、「わからない」と言わず、代案を用意しておくということです。その「代案力」を培うためには、まずやってみる、体験してみることが大切であると述べています。豊富な経験によって、知識が集積し、知恵が生まれます。テレビ業界では監督が常にアイデアをストックし、プロデュ―サーは監督のアイデアを可能な限り引き出し、モチベーションを上げ、良い作品作りに繋げることができるということです。
 これをまちづくりの現場に置き換えるとどうでしょうか。この業界のように監督とプロデュ―サーのように役割が分けられていないことが多いように思います。多少トンチンカンなアイデアでも披露しやすい空気を作り、予算等現実にできるかどうかは置いておいて、アイデアを出し、どうしたら実現可能か考えていく。アイデアを出すものと、実際に遂行していく人たちがお互いのモチベーションを上げながら、活動することでより良い方向へ進んでいくがあるのではないでしょうか。

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紅野謙介『国語教育の危機』

2019/4/11

 本書は改訂された新学習指導要領とそれに基づいて作成されている「大学入学共通テスト」の国語の問題内容についてモデル問題を例示しながら詳細に解説し、その問題点を指摘した意見書でした。本書は今後の国語教育に対する警鐘というよりも、どちらかと言えば官僚・文部科学省への批判がテーマとなっているように思われました。
 2020年に大学入試センター試験の廃止が決定され、その後身となる「大学入学共通テスト」の作成が新学習指導要領に基づいて行われています。作中で紹介された問題文を見ると行政資料や契約書がテーマとして出題されている点など新しさを感じましたが、作中でも触れられていた通り、読解問題として行政資料や契約書が出てくることに違和感も否めませんでした。
 昔から「読み書きそろばん」というように国語は社会の中で生活する上で重要です。そのため求められることが多く、何に重点を置いて教育すべきか指針決定の難しさもあると思います。さらに年号が変わり、時代の節目を迎えつつある今。様々な情報が溢れかえり、変化し続ける社会の中で教育もそれに適応した変化が求められるのかもしれません。
 新学習指導要領に沿って教育を受けた子たちが、大学へ進学して何をし、どんな大人になるのか。「大学入学共通テスト」を学生が受験したとき、その子たちはどんな本を読み、どんな日本語を話すのでしょう。その視点から見るとやはり「大学入学共通テスト」は、まだまだ改善の余地があるのでしょう。
 今回の新書はあまり町おこしや地域とは関係のない新書でしたが、その分新しい知識や視点を得るよいきっかけになったと思います。宮津市にも小林一茶や与謝野鉄幹・晶子夫妻、田山花袋など著名な文豪が訪れて多くの文学作品を残しています。例えばそれをただの「記録」や「情報」として扱うのではなく「文学作品」として、そこに書かれた美しい日本語や物語を味わい、当時の宮津の様子や社会的背景、作家の心情や人柄などを知って、文学を楽しむことができる。そんな国語力を持った子供たちが育っていってほしいと思います。

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​塩崎賢明『復興〈災害〉』

2019/3/6

 本書は、阪神・淡路大震災と東日本大震災を軸にしながら、震災がもたらす直接的な被害だけでなく、復興期に発生する制度的・法的な〈災害〉についてまとめられた本でした。災害が頻発する日本において、被災した後のまちづくりを巡って起こる第二の「災害」について考えておくことは大変重要なことであると思われます。
 その重要性の一方で、災害に関連して出てくる事例について、初めて聞く言葉や曖昧にしか知らなかった言葉がありました。例えば、孤独死の定義についても、単に一人暮らしでなくなるという「独居死」ではなく、社会的に孤立してしまった果の死という、かなり劣悪な環境による死のことでした。実際、孤独死は貧困からつながっているということでしたが、復興支援が未だに続いていること、それが東日本大震災後の日本社会における問題の根の深さを示しているように思われます。
 また、阪神・淡路大震災で被災した新長田駅の事業が頓挫したということも衝撃的でした。かなりの時間がかかっても復興に至っていないだけでなく、行政主導で進めた結果事業そのものが頓挫するということには驚かされました。著者からは、行政への批判が多く寄せられていましたが、民間の採算性も含めたノウハウを取り入れながら復興について取り組む必要があるように思われます。
 災害後の住宅問題についても大きな問題があるということでした。仮設住宅をとっても、木造の仮設があるというだけでなく、その建設によって、地元の工務店にもお金が落ちるという経済的な意味があるということには感心しました。一方で、災害公営住宅の建設が遅れていると指摘されているように、建設費用の高騰や業者の不足など、単に地元の経済範囲で収まらない問題があることも重要です。こうした背景の中で、東京オリンピックが象徴する建設ラッシュは、被災者の方々の心境を考えると、複雑なものを感じざるを得ません。
 このような背景の中、災害対策基本法を始めとする、様々な法律や制度が整備されてきたことも事実です。しかし、多くはハード事業を中心とした区画整理事業であると著者は指摘しています。そして、被害に対して上書きされていく法整備の課題として、別の種類の災害が発生したときにも、以前の法律が適用されかねないということです。こうした点についても踏まえながら、まちぐるみで災害復興の課題を考えておくことは重要であると思われます。

澁谷智子 ヤングケアラー:介護を担うこども・若者の現実.jpg

澁谷智子『ヤングケアラー』

2019/2/6

 本書は、近年増えつつある、家事や介護などの家族のケアを行っている18歳以下のこども「ヤングケアラー」について書かれた本でした。しかし、そもそもここでいう「ヤングケアラー」とは何なのでしょうか。
「祖母の介護があるから学校を休む」というとき、皆さんはどのように感じるでしょうか。「それは理由にならない」とか「親に任せておけば良い」と思われる方も少なくないかもしれません。しかし、著者も指摘するように、ここでいうヤングケアラーのケアは、単に「お手伝い」程度のものではなく、なくてはならないものであるということです。そして、家計を支えるために親が働かなければならない場合、その負担は「家族」としてのこどもに向かうことも少なくありません。
 ですが、こうしたことをわたしたちも実際本書を読むまで知りませんでした。少なくとも、それほど深刻なものとしては認識していなかったように思います。こうした雰囲気は、大人への相談の機会をへらすでしょうし、地域において人々が疎遠になることも相まって深刻化しているのではないでしょうか。それは、「家族だから」という枠組みを超えて、こどもたちをケアするための受け皿を作らなければならないように思われます。
「おばあちゃんの着替えとか排泄とか、恥ずかしくて言えなかった。若い人で介護している方がいたら、話したかった」、「高校にいた時は、誰かにはなしてもわかってもらえないと思っていた」。著者も言うように、ヤングケアラーや若者ケアラーは、それが小さい頃から当然のように思ってしまうことで、その知識や社会的な背景を認識すること自体むずかしくなっています。これまで、実際に誰がケアされるかという方へ目が行きがちで、確かに重要なのですが、一方で、誰がケアしているかになかなか踏み込んだ対応ができなかったように思われます。
 具体的な解決案は、これから探っていく必要があるように思われます。しかし、近所の人と一緒にミーティングを行ったというイギリスのように、やはり一つの方向性は、地域の中でこどもたちをサポートすることでしょうか。実際に、市町村レベルの行政だけでなく、国レベル、そして、それだけでなく、国民全体がまずは「ヤングケアラー」について認識いくことがその一方になるように思われます。これから段階の世代が介護に向かうなか、どのようにしてこどもたちのSOSをキャッチできるか、それが大きな課題といえます。

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高橋博之『都市と地方をかきまぜる』

2019/1/19

 本書は、都市と地方を「食」を介してつなぐために、食べ物がついた情報誌という「東北食べる通信」を創業した高橋氏の活動秘話でした。その目的は、単に、生産者らの収入を上げるということではなく、生産者らが買い叩かれている現状を変えることで、生産者の社会的地位を上げることにありました。
 今日、生産者と消費者は、直接イメージできないほどに離れてしまっています。著者も言う通り、特に東日本において、生産者と消費者が直接関わり合うきっかけとなったのは、東日本大震災だったと言えます。しかし、実際に、消費者という目線から言えば、いいものを食べたいけれども、忙しくてちゃんとしたものを食べるという意識は低いのも事実です。例えば、田舎まちの宮津においても、実は、生産者をイメージすることはほとんどないのではないでしょうか。
 生産者と会うことはあるが、そこで定期的に買うことはない。高橋氏の取り組みは非常に興味深いものですが、実は、生産者と消費者の「心の距離」は、実は田舎まちの方が顕著であるのではないでしょうか。例えば、丹後バルというイベントは、東京と丹後で開催されていますが、東京では生産者の顔が見えるイベントへの関心は高いものの、一方で、人口規模を差し引いても、丹後ではなかなか人が集まらないのが現状です。
 実際に、農家に生まれ育っても、積極的に継ぐなと言われることも多いというのも現状です。そこでは、田舎まちで、子どもの頃から生産者が魅力的な職業であるという意識が低いこととも重なっているように思われます。その意味では、違った戦略も必要なのではないでしょうか。例えば、単に書類だけで残すのではなく、郷土料理の復活やレシピの提案など次世代に残すための工夫が必要であると言えます。
 自分の地元の産品を誇りに思う気持ちもあるものの、生産者の顔はわからない。そうした関係性を変えていくためには、子どもたちがふるさとから出ていく前の意識の変化も大切だと思われます。小さなころの自然とのふれあいの中で、「単に好き」という愛着だけでなく、生産者を含めた具体的な関係が意識できる仕組みが大切なのではないでしょうか。そして、単に高校が人材を排出する装置になってしまうのではなく、卒業までに地域に愛着を持ってもらい、仮に市外に出ていったとしても、「もう一度戻ってきたい」そう思える町をいかに作り上げていくかがこれからの課題のように思われます。

関満博 日本の中小企業:少子高齢化時代の起業・経営・承継.jpg

関満博『日本の中小企業』

2018/12/26

 本書は、日本の中小企業が抱える課題の中でも、起業や継承の問題について、様々な事例から問題や課題、あるいは解決のためのヒントが書かれた本でした。99.8%が中小企業で構成される日本社会において、そして、ここ宮津市においても、特に事業継承は今日大きな課題になっていると言えます。
 著者によると、実際に日本の製造業の数は、ピーク時の約87万社に比べると、約半分の46万社に減少しているということです。当然、日本経済の行き詰まりによる問題もありますが、その一方で、会社が合わさることで、ノウハウや設備共有、人件費の削減など利点もあるように思います。減少に対して、ネガティブなイメージで語られることが多いものの、合わさることの利点についても、検討する必要があります。
 また、製造業などのように、設備投資が多くかかるような事業の場合、起業や新たなビジネスの展開へのハードルが高い事が問題として挙げられます。ここ数十年で起業が最も少ないのが製造業であるという指摘がされているように、下町ロケットの町工場のような日本の産業の強みをいかにバックアップするかは一つの課題と言えそうです。
 しかし、こうした課題の指摘の一方で、町工場がどうやって生まれたのかといった歴史背景については、紙幅の制約からあまり書かれていませんでした。今の感覚では、リスクを取って投資することが難しく、ぱっと始められない社会的な背景があるように思われます。いかにリスクを取らずに始めるかという思考パターンは、現代の起業の中心が農業やIT産業であるということにも現れているのではないでしょうか。
 当然、マクロな視点から見れば、昔の数が多すぎたのであり、適正な企業数へ向かうことはよいことであると思われます。しかし、ミクロな視点から見ると、やはり感情的に、小さな会社が無くなってしまうことには、なんとかしたいという思いが拭えないのも事実です。著者も今日の中小企業が抱えるもっとも困難な課題は「承継」であると指摘しています。そして、丹後においても、家族や親族が行ってきた事業をそのまま引き継ぐだけでは、事業を継続することができない時代の中で、どのようにして現代に合わせて変化できるかがこれからの課題であると言えるでしょう。事業のシフトチェンジや第三者が事業を受け継ぐといった新しい「継ぎ方」についても今後考えていく必要があるように思われます。

原田泰_ベーシック・インカム :国家は貧困問題を解決できるか.jpg

原田泰『ベーシック・インカム』

2018/12/08

 本書は、新たな社会保障として注目されつつある、「ベーシック・インカム」について、経済学の視点から、データ、思想、歴史背景などを踏まえ、現実的にどのような政策として実現可能かについてまとめられていた本でした。

 そもそも、ベーシック・インカムとは、年金や児童手当、生活保護などの社会保障を廃止して、その代わりに国民全員に一律の金額を支給しようという社会保障だということです。しかし、そうした社会保障実現において、国民が最も懸念するのは、財源の捻出ではないでしょうか。著者の原田氏は、こうした批判に対して、3割の一律の所得税をかける代わりに、月々7万円のベーシック・インカムを導入すれば、現行の社会保障や再配分にかかるコストを合理化することで十分捻出できるとデータを用いて示しています。

 一方で、都市と田舎で一律の額を設定していたり、給付対象の想定が夫婦子供一人と単身世帯への言及がなかったりする点は、今後議論の余地がある点に思われます。また、お金がないことを貧困の定義としていること、家庭や社会の問題は福祉官僚が対処すべきだと述べていることなど、細やかな課題については十分述べられていません。この点は、国家の役割の過大評価や複雑な現状の無視といった実践者からの批判がありそうです。

 しかし、割り切った定義によって論点がクリアになっている点は評価できそうです。例えば、ベーシック・インカムは、誰が国民なのかそのメンバーシップを明確にするよう要請すると言えるでしょう。原田氏はベーシック・インカムを導入するなら、移民政策については取り入れるべきではないと断言しています。このことは、左派が避けがちな論点を明確に突いていると言えます。一方で、原田氏の想定する核家族モデルはやや若い人の意識とはズレているかもしれません。例えば、一人暮らしで7万円は厳しいが、シェアハウスのように10人集まれば生活できるといった、新しい「家族」制度の検討も必要かもしれません。

 いずれにしても、ベーシック・インカムが導入された際のメリットとしては、人々が将来に渡って安定した収入を得られるという「安心感」を付与できること、そしてそれによって新たなことにチャレンジできる環境が作られるということです。まちづくりにおいても、ある程度の「暇」がなければ実は関わることが難しいように、新しい発想や挑戦が生まれてくる土壌を生み出してくれるかもしれません。

井上智洋 人工知能と経済の未来:2030年雇用大崩壊.jpg

井上智洋『人工知能と経済の未来』

2018/11/10

 本書は、近年囁かれている人工知能の技術がどのようにして経済に転換をもたらすかについて書かれた本でした。著者は、情報系の出身でありながら、現在は経済学の大学教員であるという点で、わかりやすく整理して書かれていました。
 本書をめくる中で、客観的に技術や経済の話を踏まえた上で、「ワインの一杯」を語るあとがきの内容が実は印象的ではないかと感じました。井上さんは、バタイユの有用性と志向性について触れた後で、汎用型AIが仮に普及することになったとき、役に立つか立たないかという有用性ではなく、それ自体で充足するような――仕事終わりの一杯のビールが美味しいのは、その旨味成分や冷たさといったもので説明できない――志向性が大切なのではないかということです。AIの普及からBI(ベーシックインカム)を導入すべきかどうかについては議論の余地があるように思いますが、汎用型AIによって仕事の代替が行われ、質的に経済が変化した後の社会像について、有用性の議論は興味をそそられるものでした。
 一方で、こうしたAIの議論はやはりどこか雲を掴むような議論であることも事実です。当然、事務労働はこれからどんどん減っていき、様々な業界の構造は変わっていくように思います。その中で、人間にしかできないことは何かを考えていく必要があるでしょう。ここで興味深いのは、井上氏は、おむつ売り場の横にビールを並べたら売上が伸びた、というデータマイニングでよく使われる話は、実は嘘であったということです。ここで、おむつとビールという明らかに嘘っぽい話が広がってしまうのは、専門家ではないわたしたちが、AIにしかわからないような恐怖に似たものをどこかに感じているからのように思います。
 しかし、現在の研究の技術から、特化型AIではなく、人間の思考までも代替可能な汎用AIになる道筋を具体的にイメージすることは困難であるとも言われます。こうした技術の進歩は、すぐに宮津に影響を与えるとは思われませんが、様々な技術や機能に埋め込まれたAIを一括りにして「AI」と呼び、それが恐ろしいものであるかのように扱うことには慎重になる必要があるように思われます。個別具体的な技術について、それがどのようにまちづくりに「役立つ」のかについては、別途深めていく必要があるでしょう。

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高城剛『人口18万人の街がなぜ美食世界一になれたのか』

2018/10/13

 本書は、スペインは北部サン・セバスチャンがどのようにして、世界一の美食の街と呼ばれるようになったのか、その由縁について書かれた本です。

 今日では、世界的に有名になったサン・セバスチャンですが、それは単にレストランの努力だけによって成り立ったわけではありません。一つには、レストランどうし、あるいはレストランのシェフや従業員とお客様どうしが一体となって盛り上がるということが重要な点でした。それは、何度も足を運んでくれる友達のようにお客様を扱うこと、つまり良い意味でお客様をお客様扱いしない、ということです。

 2つ目には、サン・セバスチャンの料理の底上げに大きく寄与したレストラン間での「レシピの共有」です。日本では想像もつかない秘伝のレシピを共有するというきっかけが何だったのか、本書では詳しく書かれていませんが、それは伝統的にサン・セバスチャンに根付いていた「美食倶楽部」と呼ばれる女人禁制の料理研究会の伝統のように思いました。

 一方で、日本でサン・セバスチャンのような街を目指すのは難しいのではないかという思いもあります。例えば、数日の休みを取って、食事のためだけに旅行するという文化は今の所ないように思われます。和食を切り口にサン・セバスチャンが行っていた料理学校のような若手育成プロジェクトなどを立ち上げる方が現実的なようにも思われます。

 ここで近年注目される「和食」という日本伝統のものについても考えてみる必要があるかもしれません。本書で、サン・セバスチャンの料理に懐かしさを覚えた著者がレシピについて聞いた所、実は「都こんぶ」の粉末を使っていたという事例がありました。サン・セバスチャンの料理はこのように世界あらゆる地域から料理を学び、そして、「見た目が同じか」「食材が同じ」という伝統は残しつつも、常にそのバスク料理を更新していこうという気概は、凝り固まった伝統を守るだけでなく、古いものと新しいものとの調和の中で伝統を引き継いでいくというあり方の重要性を示しているようにも思われました。

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鈴木俊博『稼げる観光』

2018/09/19

 本書は、徳島県上勝町での「葉っぱビジネス」の火付け役としても有名な鈴木俊博さんが書かれた地方が稼げるための観光について書かれた本でした。百貨店物産展出身の鈴木俊博さんがどのような思いをもって地域に関わっているのか、そして、多様なアイデアが詰まった本だと言えます。

 特に、上勝町の事例では、おばあちゃんが元気に、健康で仕事をしていること、そして地域の人に出番があるということが重要な点と指摘されていました。そこでは、自分の地域の中で主役となるということ、それを通じて健康で生きられるといういろどりのある生活が、単に稼ぐということ以上に重要な要素であるということです。

 また、これからの観光の方向性としては、スケールを活かした大規模な観光を行うのではなく、「スモールメリット」に着目した戦略が重要であると述べられていました。観光における「スモールメリット」とは、たくさんの人たちをターゲットに呼ぶというのではなく、もっと小さな、狭い部分の方を対象にすることということです。そして、そこではどこにでもあるようなものでも、観光の資源になるということを意味しています。

 ところで、こうした観光は一体何が起源だったのでしょうか。それは、日本の伊勢参りの事例ではないか、ということです。当時の人口が3000万人しかいないにもかかわらず、50日間の記録では300万人を超える人が江戸時代に参拝していたということ、こうした歴史は観光を考え直す際にも興味深い事例と言えます。

 他にも、観光の語源は、輝いているもの(光)を見に行くこと、そして会いに行って元気をもらえるものではないかという指摘もありました。このように観光をもう少し根本的に考えてみることは、普段「観光」資源とみなさないような宮津の山や海、単なる風景でさえも、スモールメリットを活かした観光の中に取り入れる場合、思考のトレーニング以上の意味を持っているのではないでしょうか。

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佐々木信夫『地方議員の逆襲』

2019/5/24

 中央大学教授である著者はまた、大阪都構想を推進する大阪府・市の特別顧問でもある。その立ち位置からの視点のため、時折政治色を感じる箇所もある。
 人口1億2000万人に対する地方議員数は33000人余、つまり政治エリートとも取れるが、なり手不足・低投票率・無投票当選といずれの角度からも関心が高いとは言えない。首長の権限に比すると議会のそれは限定的であり、執行の監視機能は未だしも、政策立案に関しては1年間に1提案もない市町村議会も存在する。
 著者は上記の課題について、下記のように提案する。
 一つ目は最も人口構成比の高いサラリーマン層を取り込むための、土日・夜間議会の開催。そして条例制定の為のブレーン役の法制局の設置だ。いずれも、住民の声を最も政策に反映させる事ができるのは、地方議員であるという著者の期待の表れでもある。
 また、国と地方の役割を明確にすべきとも説く。元来、国の下請け状態であった地方も、2000年の制度改革で自立できる寛容が整ってきた。しかしながら平成の30年間にも「ふるさと創生基金」「地域振興券」など中央で集めたお金を地方にばらまく、中央集権的な地方振興が続けられてきた。現在進行形の「地域創生」は脱し切れているのだろうか?
 地域主権を確立する道州制を導入した上で、国は少子化対策に注力し、地域は自ら活性化を図る、つまり著書の結論は、意思決定を東京に置かない、統治機構の機構の改革である。
 予算編成と政策立案能力を持った地方議員が活躍できれば、地域が活性されることは容易に想像がつく。しかし、その理想を実現する道筋はそう簡単には見えない気がする。

岡本健 巡礼ビジネス.jpg

岡本健『巡礼ビジネス』

2019/3/20

 本書は、近年話題になりつつある、アニメやマンガなどのポップカルチャーが火付け役となって、観光が活性化されるという「聖地巡礼」について取り上げられた本でした。アニメを使った町おこしやイベントも増えつつある昨今、まちづくりにおいて、ポップカルチャーがどのような役割を果たしているのでしょうか。
 実際に、リオオリンピックの閉会式に、マリオのコスプレをした安倍首相が登場したのを覚えている方も多いと思います。実際に、2012年に書かれた「観光立国推進基本計画」中には、「アニメ」という文字が盛り込まれ、改定された現在もそれは引き継がれています。このように、海外への発信においても、ポップカルチャーへの関心は高まっていることが推察されます。日本の文化を海外に発信するという意味でもポップカルチャーには可能性があると言えます。
 しかし、実際に訪れられることになる地元の人にとって、そのことは両義的な意味を持っているかもしれません。地元の景観の中に、痛車があったり、コスプレをした人がたむろしたりすることは、どのように映るでしょうか。確かに危ないとか、異質だとか、受け入れがたいものとして映るかもしれません。しかし、らき☆すた神輿が、2007年のアニメ「らき☆すた」終了後からすでに10年続いていることに代表されるように、地域の受け入れ方次第では、それが観光資源になる可能性も秘めています。
 こうした「聖地巡礼」は、アニメに限らず、ドラマや小説など多岐にわたりますが、実際その継続性については、不安定なものであると著者も述べています。ゆるキャラや大河ドラマにしても、数年後、それが観光産業になった事例は非常に稀です。SNSやネットなどを駆使しながら、発信するとともに、どういう形であれば普及できるか予測しながら行うことが大切ではないでしょうか。
 本書では、観光について必要なのは、旅行者が目新しいと思う「差異」と、その差異を生み出す「創造力」であると指摘されています。「ラププラス+」と伝えて大野屋に泊まると布団が「嫁」分1枚追加されたり、ウェッジウッドのティーカップで「けいおん」のワンシーンが再現されたりすること―しかし、それはコピー&ペーストのものではなく、ちょっとした意匠を凝らした遊びの入ったもの―が大切だと言うことです。「仕掛けすぎてはいけない」、その余地がポップカルチャーをまちづくりにつなげる重要なキーワードではないでしょうか。

塩見直紀 半農半Xという生き方.jpg

​塩見直紀『半農半Xという生き方』

2019/2/20

 本書は、半自給的な農業と自身のやりたい仕事を両立させる生き方として、「半農半X」を提唱する著書でした。「X」とは、個人がそれぞれの才能や個性、特技を活かして社会に貢献しながら金銭収入を得ていくことを意味しています。本書では、著者自身をはじめとして、「半農半X」を実践しながら活き活きと日々を送る人々が多く紹介されていました。
 地方や田舎への移住希望者増加や、沖縄移住現象のような近年の傾向を見ても、「半農半X」はこれからの生き方として多くの人に求められているのかもしれません。金銭的な収入が減ったとしても、自分たちで食べる分を自分たちで作り、自身が没頭できる「X」に取り組むことによって、「心の収入」を増やすことを人々は求めているのでしょう。しかし、月々の決まった収入がなくなるというのは大きな不安を感じるものです。著者自身、会社へと辞表を提出した際にはつれあいと多少のけんかをした、と述べられています。子どもや介護の必要な家族がいる場合はもっと不安になるでしょうし、「半農半X」を実践していくこと自体が難しくなるでしょう。また「半農」であっても、「農業」と聞くとハードルが高いと感じることもあるかもしれません。
 ですが、「半農半X」という言葉が生み出されたことにより、今までどちらか片方しかやることができない、と考えていたような人が変化を始めるかもしれません。また本書では、「農」と「X」のどちらを軸にするのかが明言されていません。「農」を中心にする人、「X」を中心にする人、両方をバランスさせる人等、人によって「半農半X」のバランスは変わってくるでしょう。
 宮津市で、本書で出てくる綾部市のように多くの人が「半農半X」を実践していけるようにするには、何が必要でしょうか。「農」にはじめて触れる人への手助けや、自治体からの支援等、様々なものが考えられると思います。しかし、何より自分の「X」を探すこと、「半農半X」という考え方を知り、自分にどう当てはめていけるか考えてみることが大切なのかもしれません。

阿部真大 地方にこもる若者たち:都会と田舎の間に出現した新しい社会.jpg

阿部真大『地方にこもる若者たち』

2019/2/2

 本書は、近年の若者が自然豊かで人の繋がりが濃い「田舎」を目指しているという若者像ではなく、むしろ、ほどほどに便利で楽な「地方」にこもっているという若者像について、岡山県倉敷市でのフィールドワークやJ-POPの系譜を辿りながら明確化した本でした。
 確かに本書で描かれる「地方」は、宮津のような2万人ほどの人口減少する田舎とは少し違っています。著者が「イオン」のモチーフを使うように、車で少し出かければショッピングモールがあり、それなりに何でもそろうという10万人くらいの地方都市でしょうか。つまり、そこに住む若者にとっての地元とは、ほどほどに消費ができ、過不足ない場所だということです。
 さらに、そうしたエリアに住む若者の特徴は、「東京へ行きたくない」といった都市を否定するだけでなく、田舎のような不便な場所へも行きたくないというものです。地方には、確かに、東京のように戦わなければ勝ち残れないような殺伐としたまちの雰囲気はありません。一方で、田舎のようにある意味で面倒な地域との濃い繋がりもありません。適度に匿名性をもあり、ほどほどに楽で、そして、昔からの友人たちとの横のつながりもあるまち――地方とは、そこから出る必要の無い「パラダイス」だということができます。

 実際に、田舎出身の若者よりも、郊外や都市出身の若者の方が多い現在、そこでは単に、「田舎を求める若者」像ではない、「地方にこもる若者」像を理解しておく必要があるように思われます。確かに、昔であれば、高校を出れば宮津から出るしか無い、「だから」都会に出ないと、という、田舎と都会がセットとして語られていたと思います。しかし、その外側で生まれるほどよい地方の領域は少しずつ広がっていっています。
 著者が用いるJ-POPの分析など、確かに説得力にかける部分もあったように思います。しかし、その中でも、こうした地方にこもる若者は、こどもができたりする中で、ライフステージが変われば、行動も変わっていく可能性があるという指摘は的を射ているのではないでしょうか。自己肯定感が高く、生まれた町にも愛着がある、こうした若者の中にリーダーシップを持った人も少なからずいます。それは、トップダウン型の行政ではなく、ボトムアップ型の地域活動に繋がりうるのではないかということです。その中で、他拠点生活など、宮津のようなまちとも橋わたしできる方略も目指すことができるのではないでしょうか。

金丸弘美 里山産業論:「食の戦略」が六次産業を超える.jpg

金丸弘美『里山産業論』

2019/1/9

 本書は、「食」をキーワードにしながら、イタリアやフランスといった世界の事例や、日本国内の事例について批判的に検討しながら、これからの六次産業についての戦略について書かれた本だと言えます。
 たいていの本は、成功事例やその秘話をまとめたものになりがちですが、この本の特徴は、日本が陥ってきた失敗例について網羅的に検討している点にあります。個別に紹介することはできませんが、失敗の理由は、これまで経済成長時代の栄光とその遺産に拘泥しているからではないかということです。新たな地域の戦略を考えるためにも、細かな個別の事例をしっかりと検討していく必要があるのではないかということです。
 例えば、国内の事例を見ても、産直所と図書館がコラボした岩手県紫波町の事例が紹介されていました。単に、産直販売をするのではなく、それがどのようなものであるのか、しっかりとテキスト化し、来た人に伝える工夫がなされています。ハワイの例をとっても、華やかな部分の裏で、深夜2時から清掃があり、朝早くから準備されるなど、実は気がつかない裏方の部分の地域の戦略に気づく必要がありそうです。
 当然、「食」を考える上で、何もかも教え込むような教育的なあり方は避けなければなりません。しかし、著者も指摘するように、お米の消費をとっても、世界の中で日本は50位であるように、実は、「お米」を用いたレシピの開発などの工夫はあまりなされていないように思われます。一方で、イタリアにある外国人のための料理学校ICIFは、イタリア外の人を生徒として受入れ、そして、学んだことを生徒の母国で披露し、そしてイタリアの料理を世界へ広めていく、そうした循環がうまくできているといいます。
この点で、イタリアやフランスはかなり戦略的であると言えます。それは、料理学校を真似すればよいということを意味するのではなく、きちんと戦略をねった食の提案が必要であるということです。当然、美味しく食べるということが第一に大切なわけですが、食や観光といった産業で地域がしたたかに勝ち残っていくためには、うんちくや味の表現までしっかりとテキスト化していくことが求められます。
 そして、食だけではなく、教育を含め、地域をあげてまちを変えていった海士町のような例や、福岡県遠賀郡大垣町の「グラノ24K」の例を見ても、単に、一つの店舗だけにとどまらず、地域全体を六次産業化する必要があるということです。行政や大学の関わり、補助金への批判が根強い一方で、そうしたものをうまく「活用」し、まちづくりに役立てていくという視点は、大変参考になるように思われました。

木下斉 稼ぐ街が地方を変える:誰も言わなかった10の鉄則.jpg

木下斉『稼ぐまちが地方を変える』

2018/12/22

 本書はまちおこしの風雲児として、全国のまちに関わってきた著者が自らまちを変えようとする若者に向けて、事業をするうえでの心構えから具体的な作り方、まわし方に至るまで、これからの時代を生き抜く鉄則を公開した本でした。近年、各所で行われている「地域活性化事業」ですが、実際、「地域活性化」「よりよいまちに」といった曖昧な目的ものが多く、実効性があるものとは言えません。では、その事業が本当にまちにとってプラスになり、実効性のあるものにするにはどうしたらよいか。まちづくりを行っていくうえで大事な視点であるように思います。
 近年、政府が「地方創生」を政策として掲げ、各地で補助金を使った事業メニューが行われています。一見ありがたい政策のように思われますが、注意しないといけないことがあります。それは、使い道が規定され、他地域でうまくいった事例を導入することが前提になっているため、地域の違いや特性を無視して「補助金をもらうことが目的化」してしまうことがあります。また、事業の成果として「人がどれだけ来たか」「どれだけ売れたか」といった指標で検証されることが多く、事業に参加した人たちが「どれだけ利益を出せたか」という指標で測られることはほとんどありません。事業に参加した人たちが赤字になり、継続できなければ、結局の所、意味がありません。結果的に地域全体の活性化につながらず、一部のうまく立ち回った人や企業だけが儲けるというのも考えなければいけない問題です。
 その中で、注目すべき事例として不動産オーナーによるまちづくりの取り組みです。著者は熊本市のある商店街のごみ問題に着目し、不動産にかかる維持管理費を大幅に削減することで、その費用を不動産オーナーに渡し、地域活性化基金としても使っていく方式を考えました。ゴミの無法化状態と莫大な回収予算に対して、不動産オーナーと連携し、契約内容を根本的に見直したことで、大幅なコスト削減と景観の改善に繋がったというものでした。単にコスト削減と利益分配を行うことがポイントではなく、NPOへの寄付、路上マーケットやシェアオフィス等、地域への投資を行うことで、地域の価値を上げることにあります。地域の収支に目を目けると、地域の価値を上げることは、不動産価値を高め、歳入の増加に繋がる、このように、まちと不動産を一つとして捉える見方は目から鱗でした。そして、この視点はこの地域にとって大事なものではないでしょうか。
 また、岩手県のオガールプロジェクトの事例では、行政が公共、民間施設を開発、運営、外注するといった従来のやり方ではなく、民間が自主資金で公共施設を開発、運営、またテナントを集めて経営をしており、雇用を生み、地域特産物の流通の向上で農家所得も上がっていることが報告されていました。事実、この結果、地価の上昇にも繋がっています。赤字が膨らみ「金食いインフラ」と呼ばれる行政が持っている土地や建物は全国で多くあるなか、民間が新たに知恵をもとに活用すれば、地域の稼ぎ柱「稼げるインフラ」になる可能性があるということです。しかし、そこで、大事なのは民間が事業を行っていくうえで、自らリスクを負い、どれだけ地域のために資金を出せるかということです。もちろん、それには相当な覚悟と計画が必要なのは言うまでもありません。また、注目すべきはスポーツという資源に目を向け、バレーボール等の小さなマーケットを狙い施設建設やスポーツチームの合宿に誘致を行っていることです。今、様々なユニークなスポーツ、地域に特性のあるスポーツが注目を集めているなか、それらに目を向けると地域活性化のヒントになるのではないかと思います。
 まちづくりを事業としておこなっていくには覚悟が必要ですが、まずやってみる、挑戦しないと分からないことがあります。小さな挑戦を地域で許容していくことが大切です。大人数で始める必要はありません。2、3人でよいので、地域と向き合い、自ら事業を仕掛けている人と取り組み始めるのが重要な一歩だと著者は述べています。途中でつらいこと、精神的に追い詰められたときに笑いあえる、そんな仲間を探すことは難しいですが、まずは自分が主体となる意識をもつことで、類は友を呼び、仲間が集まるかもしれません。
 またまちづくりの「鉄則」として、まちづくりを活動ではなく、事業として捉え、走りながらも、定期的に見直し、あらかじめ撤退するラインを決めておくというものでした。まちづくりの活動ではなかなか難しいことだと思いますが、例えば、いかに小さな投資でも2年~3年で回収するといった事業として考えることが重要であるということでした。だからこそ初期は慎重に小さく始め、少しずつ規模を大きくしていくという考え方は理解できました。
事業をやるにあたって、目先の利益にとらわれず、まちの皆が本当の意味で豊かになるとはどういうことかを考え、自ら汗をかくということが、地域の明るい未来に繋がっていくのではないでしょうか。まちづくりに関わる人たちに是非紹介したい本書でした。

指出一正 ぼくらは地方で幸せを見つける:ソトコト流ローカル再生論.jpg

指出一正『ぼくらは地方で幸せを見つける』

2018/11/28

 本書は、さまざまな地方に移住し活躍する若者たちを取り上げ、彼らがなぜ田舎に住み、そして何を幸せに感じているかをまとめた書でした。10以上の若者の事例も取り上げられており、その意味では事例集としても興味深い本であり、雑誌「ソトコト」の編集を行う指田さんならではの書になっていました。

 しかし、本書のタイトルの一部にもなっている「幸せ」の共通点は一体何だったのか実はわからないようにも思われます。ある若者の事例は幸せそうでも、別の若者の事例はそれほど幸せではなさそうに思われることがありました。例えば、普段の何気ない生活感あふれる地域を切り取った写真を取るという下田写真部の人たち、こんこんと降り積もる雪によって音が吸収され、ある種の芸術作品に見えるほどの新潟に移住した若者。「仲間と楽しむ」、「ローカルにワクワクするおもしろさがある」、「移住でも、観光でもなく、関わりを求める世代」。ここでいう「幸せ」の定義とは、一つの形だけ表現できないこと、そうした多様な幸せのあり方がある、そして、それでよいということが意図されているようにも思えました。

 一方で、「若者」をターゲットにした本書は、意図せず、世代間の意識差を強調している点が気になりました。地域の外部者の視点から常に語られる本書では、実際の現実で起こっていることを過剰に美化していないか、そして、過度に一般化していないかということです。当然、生まれながらにしてデジタル危機に馴染みのある20代以下の若者とそうでない世代を比べれば、情報のとり方やスピード感の違いが世代間にあるでしょう。同様にして、年配世代からも「今の若いもんは」ということもあります。しかし、むしろ重要なのは、それぞれの視点や価値観の違いを活かして、協働することではないでしょうか。

 その意味で、住んでいる居住人口、観光客などを入れた交流人口ではなく、人のかかわり合いの人口である「関係人口」は、ある種の指標になるように思われます。単に、住むことを目的にするのではなく、どれだけの人が関わるか、そして、住まない人も地域に関わってもらえる指標です。実際、本書に出てくる若者は、かなりコミュニケーション能力が高い人たちであることは間違いないでしょう。しかし、世代間・地域内外を超えた新たな「関わり」をどう創出するかがこれから重要になってくるように感じられました。

北川フラム ひらく美術――地域と人間のつながりを取り戻す.jpg

北川フラム『ひらく美術』

2018/10/31

 本書は、新潟妻有トリエンナーレなどのプロデューサーとしても有名な、北川フラム氏が近年話題になっているアートと地域づくりに関して書かれた本です。美術によって地域がひらかれていくこと、その可能性について、まちづくりにおいてどのように受け止めることができるのでしょうか。

 実際に本書を手にとってみての感想として、実際にではこうした美術ないしアートが宮津でも可能かと聞かれれば、正直なところ具体的なイメージがわかないように思われました。北川フラム氏は、鶴見俊輔氏の限界芸術を引きながら、専門家でない住民がアートに加わる可能性を提示しています。しかし、具体的なやり方などについては、踏み込んだ記述がなかったように思われます。

 しかし、北川フラム氏が、アートの有用性を引き受けながらも、アートは役に立たない、赤ん坊のように言うことを聞かないという点を指摘していることは、はたと気付くことがあります。それは、今あるまちづくりのあらゆることが、何らかの意義のあることしかできないという風潮が、逆に閉塞感を感じる要因となっているということです。もちろんそれは、最終的に何らかの意義のあることに繋がっていく必要があるわけですが、新しいものを想像する力がアートにあるように思われます。

 ゲストの吉池さんは、一見すると北川フラム氏がいうような美術とは関係のないもののように思える屋台を行っています。しかし、非専門家として、新たな場所を作り、自分を表現するということそれがアートに繋がっていくという北川氏の指摘は、自分の屋台を介して地域コミュニティをひらくという活動がアートの範疇にあるのではないかということに気づくきっかけであったと述べていました。当初、具体的なイメージが湧かないと考えていた人も、ある意味では、自分が何かを表現するということから始められる可能性があるということではないでしょうか。

 当然、こうしたアートが役に立つというなかで、制度や仕組みの中に取り込まれていくことに批判があるとは思います。しかし、何か役に立つということだけではない、まちづくりの想像力について、宮津にいるわたしたちは何から始められるか、改めて考える切っ掛けになったように思われます。

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藻谷浩介・山田桂一郎『観光立国の正体』

2018/10/03

 本書は、スイスのツェルマットを中心に、日本国内でも「観光カリスマ」として知られる山田桂一郎さんの論考を中心に、藻谷浩介さんとの対談を通して、これからの日本の観光について書かれた本です。

 まず観光ビジネスに通底する問題として、一見の客を中心として考えた結果、リピーターをいかに増やすか、という視点が蔑ろにされがちであることです。観光の評価を取ってみても、地域経済を考えるのであれば泊数の方が重要ですし、リピーターを考えるのであれば観光客の満足度の方が、単に入り込み客の数をカウントするよりも重要なはずです。

 こうした態度は、PRとマーケティングの勘違いにもあるということです。PRは受け入れ側の態度を変えずに(例えば、観光地の住民)、いかによく見せるか、ということであるのに対して、マーケティングは受け入れ側の態度も含めて、いかに消費者に満足してもらうか、という点が重要です。そして、観光におけるマーケティングは、往々にして、単なるPRになりがちで、中身の伴わないことが多くなっていると言います。

 しかし、いかに観光にとって受け入れ側の対応の変化が必要だからといって、住民にとってそれが楽しいということも同様に大切です。実際に、山田さんは、人間関係の良好な地域が客に高評価であると指摘しているように、単に、人を呼ぶことばかりが目的化することになってはいけません。

 合わせて、一筋縄ではいかないモンスター重鎮の問題や、地方議会の問題などの現実的な変革、割高な地産品が多い中でどうやって消費し、意識を上げるのか、富裕層相手のサービスに対する具体的なイメージが欠落していること、など本書を超えて議論すべきこともまだまだあるように思われました。

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山崎亮『ふるさとを元気にする仕事』

2018/09/15

 本書は、コミュニティデザインの第一人者である山崎亮さんによる「ふるさと」を元気にするためのヒントが書かれた新書です。人口減少の時代とは言え、その課題は、人口減を解決するということそのものではなく、「減り方の中で生じる課題をどうやって見つけ、どう乗り越えていくかということ」にあると山崎さんは問題提起をされています。

 その中でも、山崎さんのコミュニティデザインは、「すぐやる課」に代表されるような市民をお客さま扱いするのではなく、どうやって地域の方が主体的に参加していくかをデザインすることに焦点が当てられています。それは、単にハードを整備すればよいというだけでなく、人々の「ゆるいつながり」とでも呼べるようなものをいかに創出するかということが重要な課題です。

 また、どうすれば人口減を「防ぐ」ことができるのかという視点からは、いかに出ていく人を食い止めるかという発想になりがちです。山崎さんがいわれるように、出ていく人を止めるのではなくて、どのようにして帰ってきたい街にするのか、という視点の転換が必要であるように思われました。そして、地域の良さを発見するためには、例えば、家島での台所のものが家の外に出ていること(まさに島が家!)の面白さに気づいたのは外部の人だったように、外側の人をどのように巻き込み、つながっていくのかということも改めて重要であるように思われます。

 そして、地域のありたい未来を創造するための手法として、バックキャスティングという手法も非常に参考になるものでした。フォアキャスティングは今あるところから未来を考えていくのに対して、バックキャスティングは未来のありたい姿を先に決め、そこへ向けてどのようなことが必要かを逆算していくあり方のことです。大きくなりすぎた衣装をいかに仕立て直すかというトマス・カーライルの例にあったように、高度経済成長時代に爆発的な人口増を経験した宮津においても、新しい時代のなかでどのように「仕立て直すのか」が問われているように感じました。​

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